2019/02/03 18:22



福祉アーティストとしての働き方


--どんなことをしているんですか?

「地方でパラレルワークしてます。介護職員として働きながら、ライター業をしつつ、地域おこし協力隊の協力隊の活動をしています。」


--肩書きの”福祉の侍” / “福祉アーティスト”とは?


「もともと侍が寄り添って民のために動くってイメージで好きで。自分が福祉をやりたいと思ったときに、自分がこういう人ですよというのを端的に伝わる肩書きとして作りました。」


「最近は”福祉アーティスト”に変えてます。福祉を考えて行ったときに、困ってるから助けてじゃなくて、自然に人が集まるような循環を作りたくなって。人は楽しいところに集まるので、楽しさを伝えたくなったんです。」



自分の思いではなくて、食べることをで選んだ進路

--昔から色々なことをやってきたのでしょうか?

「そんなことはなくて...。例えば高校の時は音楽をもっとやっていきたいと思ってました。ただ、それでは食べていけないと思っていましたし、家族が好きなので、そのためにも周りの人が納得していないと、”あの人はまともに仕事をしてなくてふらふらしている”と見られそうで、怖さがあった。」

--結局進路はどうしたんですか?

「将来のことを考えて、まずは食べて生きていかなければいけないので、大学へは行かずに就職をしました。高校に来ていた求人から、特殊産業用機械(包装機)の組み立て・調整・アフターフォローを担当していました。」

--働き始めていかがでしたか?

「思ったより仕事に時間が取られると思いました。一番長い時は36時間ぶっ続けで働いていました。1年の2/3くらい出張だったんですけど、お客さんが夜中の1時と言われたらその時間にいかなければならなかったです。当時の自分は出張自体が嫌でした。見慣れない地域に行くことだったり、まだ機械のことも詳しくなかったので向かう新幹線の中で分厚い参考書を読んでいたりとかしてました。そんな状態を2年弱行なっていたんですが、体に異変が出て、下痢や嘔吐を繰り返していました。」

--そんな中、大きな事故が起きたと伺ったのですが。

「自家用車で通勤していたのですが、深夜2時ごろに仕事から帰宅している時に、交通事故を起こしました。カーブで2~3秒意識が飛んでしまって、意識が戻ったら目の前が倉庫で。急いでハンドルを切ったおかげでギリギリのところで一命を取り止めましたが、救急搬送されました。」


生きるための道がすべて遮断されて、何もかも死ぬ手段に見えた

--大変でしたね・・。

「翌日も出張があったので、搬送された病院から状況を会社に報告すると”労災にするな”が第一声でした。きついという感情も感じられず、とにかく訳がわからない状態になって、言語化もできなくて、とにかくやるしかないと思ってました。」

「その後もすぐ働き始めたのですが、人と対面しても言葉が出ないし、助けて欲しいとも言えなかったし、挨拶すらできませんでした。何をしても訳わからない状態になっていました。その後数ヶ月くらい働いて会社を辞めて、家にこもっていました」

--よくそんな中、抜け出せましたね。

「事故の際に病院から職場に電話したときに、母親が隣にいてくれたので、ちょっと違うんじゃないかと言ってくれたので辞めれたのと、その後も母親がずっと見捨てないで、寄り添ってくれたんです。自分は母親が世界一の母親だと思っているんですけど。毎日食事を手作りで作ってくれる。それが毎日続いていたから復帰できましたね。」

--その後、転職先でうつ病の診断を受けたと聞きました。

「はい、復帰して、転職して一年くらいでうつ病の診断を受けました。」

--宣告されて大丈夫でしたか?

「自分の場合は楽になりました。今まで体が動かないとか、仕事をこなせないとか、人の役になれないとか、全てが自分のせいだと思ってました。結果が出ないということはやる気がなくて、行動できなくてダメなやつ。自分がダメなんだ、頑張らなきゃと思っていました。でもそれは病気だと言われて、自分が悪いんじゃないんだと思えてすごく楽になりました。」



踏み出した一歩


--当時考えていたこと


「最初の転職時に次の転職先はずっと続けないと決めて、自分と内省する時間と決めていました。まずは毎日ご飯を食べれるようになって、話せるようになりました。また、今まで感じてきたことや影響を受けた人・物・本を思いつく限り紙に書きまくって。ネットで興味があることを調べるようになりました。いつからか忘れてしまっていた、自分の”やりたい”と向き合う時間を作りました。」



--なぜ福祉になったのですか?


「福祉の転職サポートをしてくれた方が、自分と向き合ってくれて、本当に合っていることを探してくれた。その過程で、なんとなくおじいちゃん・おばあちゃんが好きだったこと、最初の会社を転職するときにも考えていたこと、周りからも向いてるとか言われたことを思い出して、やっと言語化できるようになってきたんです。


「福祉に関わる人が報われない未来をなんとかしたいって思ってやってます。福祉を良いよと発信される際、誇りが強調されて、仲間うちでまとまってしまっている気がして。興味がない人たちとの温度差があると思ってました。この温度差をなくす必要性を感じ、一年くらいそういった動きがないかなと探してたんですけど、出てこなかったので、もう自分がやろうと思いました。」


--急にアクティブになり始めたように感じるのですが、どうして踏み出せたのか?


「うつ病宣告の後、自分を許せたんですね。2回目の転職をする前のある日に、スピリチュアルっぽいんですけど、寝てるときにプチ走馬灯がおきたんですよ。今までのことがバーっと出てきて、その時初めて自分が頑張ってきたなと思えました。今までは、とりあえず頑張るとか、食べるために働くとかで考えて生きてきたんですけど、フッと自分とみんなのために生きようと思ったんです。その時に、ブワーッと涙が出てきました。」


「そこから、調べるだけではなく、動くようになりました。今までは石橋を叩いて、叩きすぎて壊す人だったけど、初めて石橋を渡りました。まず最初に、地域おこし協力隊の人に会いに行きました。自宅にあったチラシを見て。ずっと調べてはいたので興味を持っていて、行動し始めました。」


「どうせ会うなら相手にもいい時間になるようにと、地元のことを調べて準備して会いに行きました。結果、調べて準備して行ったことは、全部相手は知っていたんですが(笑)。でも、そこで地元の若者が地域おこしについて回ること自体に価値があると気づきました。」




これからについて


--今はどんなことを考えていますか?


「ぼちぼちやろうかと思っています。動きすぎて、また体壊しそうなので。無理をしちゃう性格で、自分の身がどうなろうと動いてしまうので。タネはめちゃくちゃ巻いたので、広げるのではなくて、タネを育てていきたいです。」


--巻いたタネとはどんなものですか?


「例えば、築140年の古民家コワーキングスペース兼カフェの修繕をしたりとか、有料の発信力向上合宿に行ったりとかしていました。とにかくいいと思ったことに足を運んで、自分なら何ができるかと考えながら、少しづつできることをやり始めた。例えばお礼言ったり、挨拶したりとか、そういうところから。」


--一歩を踏み出したいと思っている人へのメッセージ


「ぼちぼち行きましょうと。思いを持ち続けていればいつか動けるようになる。自分の場合は22年間かかったけど、思いを持ち続けていたからこそ動くことができた。そこに少し加えると、その思いを発信することを考えてみてほしい。それが自分の経験から伝えられることです。」



プロフィール

鷲見 翼 地方でパラレルワーカーの24歳。福祉アーティスト。

Twitter: @kotonoha218


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